プレス掲載
プレス掲載分(主に発見に関するもの)
2015年12月31日
釧路新聞
坂本牧場、龍馬の縁者が経営判明/釧路町
坂本龍馬生誕180年の今年、釧路町史に登場する同町遠野にあった「坂本牧場」が坂本龍馬の縁者である坂本彌太郎が経営していたこと、その期間は1910(明治43年)から22年(大正11年)までの12年間ということが判明した。調査したのは、東京都在住で幕末維新期の人物史を中心に研究している歴史研究家のあさくらゆうさんだ。あさくらさんの調査手法は登記簿謄本や土地台帳などの公文書を通して事実を積み重ねていくというもので、今月23、24日に釧路町と釧路市を訪れ釧路地方法務局や市立釧路図書館で資料収集や「坂本牧場」跡の視察、周辺での聴き取りなどを行い、足跡をたどった。
2015年11月14日
共同通信(産経新聞より引用)
「愛知出身ぜよ」龍馬の孫に新史料 豊川の農家から養子に〜出生から徴兵まで克明に 歴史研究家が地元の神社などで発見
坂本龍馬(1839−1867)の死後に家督を継いだおいの坂本直には、  実子のほかに「兼次郎」という養子がいた。  出生など詳しい情報はなかったが、生家があった愛知県豊川市の神社などに、  養子になった時期を示す明治時代の戸籍や  徴兵関係の史料が残されていることが13日までに分かった。  歴史研究家あさくらゆうさん(46)が発見した。  史料によると兼次郎は幕末の明治1866年9月、  旧下佐脇村で農家だった中村善助の三男として出生し、  20代だった1889(明治22)年7月に直の養子になったと記載されている。  兼次郎が直と出会った時期については不明だが、  1882(同15)年に徴兵のため作成された  旧下佐脇村の「国民軍連名簿」には兼次郎の名前がある。  その後の名簿では確認できないため、これ以降に村を離れたとみられる。  直は当時、東京・麹町に在住して宮内省に勤務していたが、  兼次郎を養子に迎えた3カ月後の1889年10月に免職となり高知へ帰郷した。  兼次郎も一緒だったとみられるが、1891(同24)年2月に分家して札幌へ移住。  1903(同36)年には浦臼に土地を購入した記録が残っている。  浦臼にはその5年前の1898年、  龍馬の別のおいで自由民権運動家だった坂本直寛が移住。  直の妻だった留と実子直衛も、直が死亡後の1899年に移り住んでいた。  あさくらさんは  「あまり知られていない兼次郎の存在を証明できる史料を見つけられた。  兼次郎は直の死後も坂本家とのつながりが深かったことが分かる」と話している。  15日は龍馬の生誕から180年となる。
2015年11月13日
共同通信(産経新聞より引用)
「龍馬のおい」の新史料 家督継いだ坂本直 宮内省に14年勤務の経歴示す
幕末に活躍した坂本龍馬のおいで、死後に家督を継いだ坂本直10+ 件(なお)について、明治維新後に宮内省へ約14年間にわたって勤務した際の経歴などを記した史料が、国立公文書館に保管されていたことが12日、分かった。歴史研究家、あさくらゆう10+ 件さん(46)が公開請求した。  15日は龍馬の生誕から180年。あさくらさんは「家督を継いでからの史料は少なく、事実関係を示す公文書が出てきたのは重要。龍馬だけでなく、跡を継いだ人にも目を向け、研究が進んでほしい」と話す。  史料は、直が宮内省を免職後の明治25(1892)年11月、恩給を請求するために提出した書類など。自筆も含まれているとみられ、生年月日は天保13(1842)年11月20日と記載し、坂本姓の前名である「高松太郎」「小野淳輔」も示している。龍馬が「不慮賊害ニ遭」ったため、朝廷の命により明治4(1871)年8月に家督を継ぎ、「永世拾五人口下賜」を受けたとしている。  職務の経歴では、明治元年の12月に箱館府の権判事(ごんのはんじ)を免職され、坂本家を再興後の4年11月から東京府の権典事(ごんのてんじ)として勤務。翌月に典事に昇任したが、5年6月に再び免職となった。
2015年9月5日
共同通信(産経新聞より引用)
幕末の剣豪・斎藤一 西南戦争に従軍 新撰組生き残りに新史料
西南戦争で右肋骨に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官−。幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが5日、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさん(46)が公開請求した。  文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給二」の文官恩給の部。斎藤は警視庁を退職翌年の1893年1月19日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。 これによると、斎藤は77年2月20日に内務省の警視局で警部補となり、同5月17日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。4日後の同5月21日に大分県の嵯峨へ着き、同7月12日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると、陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同8月15日で、戦闘終結後の同10月24日に臼杵で乗船。帰京後の79年10月8日に勲七等を与えられた。81年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛に。警視庁の設置で、同年11月11日に巡査部長となり、翌年12月に月給が12円から15円へ昇給した。階級は85年7月3日に警部補、88年11月1日に警部へ上がり、92年12月14日に退職。当時48歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、16年間の勤務に対する恩給は年46円だった。これらは、妻トキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。
2014年11月26日
公明新聞
新選組・斎藤一の新史料発見
 警視庁で過ごした明治の半生を直筆で綴る 幕末ブームが来ると必ず登場する新撰組、なかでもひとりの幹部が最近注目されている。彼の名は斎藤一(はじめ)、のちに藤田五郎として明治・大正を生きた人物だ。 昨年はNHK大河ドラマ『八重の桜』で、今年は映画『るろうに剣心』に彼をモデルとした人物が登場し、新撰組愛好家たちを魅了している人気者だ。今年は新聞でも何度か採り上げられた。 斎藤一は本名を山口二郎(一)と称し、弘化元年(一八四四)に幕臣の家来の家に生まれている。新撰組では局長・近藤勇とは旧知の仲で、創立以来、副長助勤として名を連ね、剣の名手として対立側を震撼(しんかん)させている。 慶応四年(一八六八)に今の福島県会津若松市で新撰組の仲間と別れ、以後、彼は会津藩士として後半生を過ごしている。維新後は公務員を歴任し、警察官時代は明治十年(一八七七)の西南戦争に出征し、勲七等を受勲している。 そのような彼だが、実は彼個人が残した史料は極めて少ない。子孫宅が戦火に遭ったこともあり、彼が写った写真でさえも、実は一枚しか存在していない。そうしたことから彼に関する物語が史実のように創作されることも多く、それが実際に史実として定着することがしばしば散見される。 今回私が発見したものは国立公文書館が所蔵する『明治二十六年文官恩給』で、是は在職期間が十五年を経過して退職したものが管理恩給法により恩給請求した文書の綴りだ。この請求書のなかにはほぼ本人直筆の文書が残されていた。 これによると、明治十年より今の警視庁にあたる警視局に奉職し、同二十五年に退職したことが記されている。勤続年数は恩給の計算期間と密接に関係し、本人の履歴書とは別に、当時の大蔵省による入念な確認作業が行われ、本人の正確な勤続内容が把握できる。この恩給請求により、当時の公務員の初任給に近い年額四十六円の支給が決定している。 また、恩給に関係することから、西南戦争における従軍履歴も添付されている。これによると、五月に東京を出征し、七月に右肋骨に銃創を受けたことが確認できる。 夢多い小説やドラマで実在の人物が取りざたされ、顕彰活動されることは故人にとって喜ばしいことだが、こうした基礎史料が登場することにより、故人の顕彰が発展することを祈念してやまない。
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2013年9月11日
茨城新聞
新選組・芹沢鴨暗殺に新説 日記読み解き提唱 宮家接近会津の怒り?歴史研究家あさくらゆうさん
  幕末、京都警護に当たった「新選組」の初代局長、芹沢鴨(せりざわかも)(現在の行方市出身)の暗殺原因に新説が浮上した。 宮内庁が所蔵する当時の有栖川宮(ありすがわのみや)家の日記に、芹沢が同家に仕えることを希望したとの記述があった。 発見者で歴史研究家のあさくらゆうさんは、周辺の状況も踏まえ「芹沢は攘夷(じょうい)実行のため宮家に接近したが、新選組を配下に置く会津藩に無断で行動したことから、怒りを買ったのでは」とみている。 芹沢の暗殺についてはこれまで、市中での乱暴ぶりを問題視した朝廷の意向で、会津藩が近藤勇らに排除を命じたとの説が知られていた。  あさくらさんが調べたのは、有栖川宮家(現在は断絶)の日記。暗殺直前の文久3(1863)年9月13日、芹沢が隊士15人を率いて同家を訪れ、「何事に限らず仰せ付けくだされたく願い奉り候」と、配下となる希望を伝えたという。  当時、同家の帥宮(後の熾仁親王)は、幕府に攘夷を迫るため関東へ向かう予定だった。芹沢が過去にも朝廷側に攘夷を訴えていたことから、あさくらさんは「同家に仕えることで攘夷実行を企てた」と分析。新選組が会津藩から命じられていた京都市中警備では「自分の目的が果たせないと思ったのでは」と推測する。  ただ、日記によると同家側は芹沢に「そのうち返答申し入るべき旨申し答え置く」と答えを濁している。また、帥宮は幕府の圧力で孝明天皇の妹・和宮との婚約を解消させられたこともあり、反幕府的だったとされる。  幕府との無用なトラブルを避けたかった朝廷側と、自らの配下を離れて宮家に接近したことを怒る会津藩の意向が一致した‐というのが、あさくらさんの見方だ。  また、9月16日と18日の2説あった暗殺日についても、16日説を補強する記述が同日記にあったという。  同月17日、会津藩から同家に千両もの献金があった。それまでの献金額と比べ100倍以上多いことや、通常行われる藩側の事前連絡がなかったことから、「芹沢を殺害した後、迷惑を掛けたことをわびる意味合いで、急ぎ贈ったのでは」と推測する。  今年は新選組誕生150周年。小説などのイメージで「乱暴者」と見られがちな芹沢だが、「今回の発見が名誉回復につながるのでは」とあさくらさん。  芹沢の出身地・行方市の記念事業実行委員長飯田正義さん(58)は「芹沢は、自分の気持ちを抑えてまで組織に収まるタイプではなかったのだろう。新しい国を造ろうと、純粋に生きた人だったと思う」と話している。
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2013年8月13日
神戸新聞朝刊
「八重」最初の夫・川崎尚之助 実印入り判決原本発見
 NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、山本八重の最初の夫で、出石藩出身とされる川崎尚之助(しょうのすけ)に関わる古文書が、国立公文書館つくば分館(茨城県つくば市)で新たに見つかった。東京控訴院(現東京高等裁判所)の民事判決原本で、尚之助の実印が確認でき、戊辰戦争後、米をめぐる詐欺事件に巻き込まれたことや尚之助が「独身で斗南(となみ)藩(現在の青森県)に来た」と証言したというくだりもある。(長嶺麻子)  尚之助は1836(天保7)年、出石藩士のもとに生まれ、江戸に出て外国語などを学ぶ中で、八重の兄覚馬と知り合ったとされる。  その後、覚馬を慕って会津藩に移って八重と結婚し、会津藩士として砲術を指導。出身地とされる豊岡市には史料がほとんどなく、ほぼ無名の人物だったが、ドラマ放映を機に謎の多い生涯に関心が高まっている。  今回見つかった史料は、「川崎尚之助と八重」などの著作がある歴史研究家のあさくらゆうさん(44)=東京都=が明治初期の裁判に関する史料を調査していたところ、7月上旬、1874(明治7)年の判決原本の中から発見した。原本は東京高等裁判所から東京大学を経て、2010年に同館に移されたという。  史料によると、元会津藩士の尚之助は、会津藩など旧幕府軍と薩摩・長州藩など新政府軍が戦った戊辰戦争後の1870(明治3)年10月、他の藩士らとともに斗南藩へ移された。  給料は1日3合の米で、困窮していたという。その後、米取引で振り出した手形をめぐって外国人商人から訴えられ、「貧窮した独身で、どうにも賠償できない」などと陳述している。尚之助が1875(明治8)年に病死したことで裁判は中止となった。  尚之助と八重が別れた正確な時期は不明だったが、今回の史料で斗南藩に移る際に、尚之助が離別を了承していたことが明確になった。あさくらさんは「不審な男と協力した間違いはあったが、外国人から手形を取り戻したり、家族や斗南藩に被害が及ばぬよう配慮したりと、聡明な人物だったことがうかがえる」と話している。
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2013年5月9日
日本経済新聞朝刊
新選組前身のナンバー3か 壬生浪士組の谷右京、複数文献に
 新選組の前身「壬生浪士組」に谷右京という幹部がいたことを複数の文献から歴史研究家が確認した。局長の芹沢鴨、近藤勇に続いて名前が記載されたものがあり、「ナンバー3だったのではないか」とみている。砲術に秀でており、浪士組離脱後も研究を続け、自作の防弾盾を万国博覧会に出品したとされる。  山口県文書館が保存する「上京有志姓名録」には、1863年に江戸から7組に分かれて京都に向かった浪士組隊士200人強の名前、出身、年齢などが記されている。谷は5番組の2番目に名前があり、丹波柏原藩(現兵庫県丹波市)元藩士で63歳とされている。  京都での会津藩の動静などが書かれた「文久元治亥子太平録」(福島県会津若松市立会津図書館所蔵)では、「壬生浪士頭」として芹沢、近藤の次に「丹波産 谷右京」と出てくる。幹部として、名前が記載されているのは3人だけだった。  谷が浪士組を離脱した理由は不明だが、1881年に漢学や医学などに詳しい学者蒲生重章が編さんした「近世偉人伝」に、かつて谷右京と名乗っていたとして、谷水石の名前で離脱後の活動が紹介されている。  偉人伝によると、谷は黒船来航などをきっかけに独学で外国製と同じ仕組みの銃を開発したほか、車楯(くるまだて)という羽毛製の防弾盾を作った。幕臣・勝海舟の援助を受けて車楯を1873年のウィーン万国博覧会に出品したという。  これらの文献を分析した歴史研究家あさくらゆうさんは「浪士組が砲術を用いていたことは分かっていたが、師範役は不明だった。谷がその役割を担っていたと十分に考えられる。志を忘れず、砲術の研究を続けた先見性のある人物だったのだろう」と話している。  浪士組は薩摩、会津両藩と御所を警護し、長州藩などを追放した1863年の「八月十八日の政変」の功績が認められ、新選組を名乗ることが許された。新選組は今年で結成150年。
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2013年4月15日
朝日新聞夕刊
大河効果で新たな新事実〜研究成果、「八重の桜」に
 NHKの大河ドラマがゆかりの地を盛り上げる「大河効果」は、経済の面だけではない。歴史研究にも及ぶのが今年の「八重の桜」だ。主人公・新島八重(1845〜1932)の生涯は、はっきりしない点が多かった。ところが一昨年6月の放送決定以来、次々に史実が発掘されている。
尚之助〜逃亡説を否定/戒名発見
 「八重の桜」は、福島県会津地方出身で、同志社大学の創設者・新島襄の妻となった八重(綾瀬はるか)の生涯を描く。会津藩と新政府軍が戦った1868年の会津戦争で八重は鶴ケ城に籠城(ろうじょう)し、銃で応戦した。  八重の最初の夫は、7日放送の第14回で祝言(しゅうげん)をあげた川崎尚之助(しょうのすけ、長谷川博己〈ひろき〉)。大河効果で川崎は最も大きく研究が進んだ。(略)川崎は東京謹慎後の70年、現青森県東部の斗南藩へ移住する。会津藩が復興を許された地だ。以後の川崎の足取りは、歴史研究家のあさくらゆうさんが明らかにした。  斗南藩は米の収穫量が少なく、藩民が飢えに苦しんでいた。川崎は函館に赴き、斗南藩で収穫予定の大豆を中国米と交換する契約をデンマーク商人と交わす。だが、仲介した人物にだまされてトラブルになり、裁判にかけられた。その記録が北海道立文書館などに残っていた。  川崎は75年3月20日、判決前に東京の病院で亡くなる。あさくらさんは豊岡市でも調査し、出石藩士だった川崎家の菩提寺が所蔵する「墓石明細簿」から、同じ命日が記された「川光院清㟢静友居士」という戒名を発見した。  あさくらさんは「戒名の人物は尚之助に間違いないと思う。最後まで会津にかかわり、トラブルの責任を一人で背負って死んだ。献身的な人物だったのでは」と話す。  (略)これらの新事実はドラマにも取り込まれるようだ。脚本をほぼ忠実に小説化してきた『八重の桜』(NHK出版)によれば、川崎は5月の放送で会津藩士となり、6月には内藤が会津を訪れるはずである。【編集委員・村山正司、同・宮代栄一】
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2013年3月20日
毎日新聞但馬版
感謝状:但馬人の誠実さ、知るきっかけに 川崎尚之助の功績発掘 豊岡市、歴史研究家・あさくらさんに /兵庫
 豊岡市は19日、出石藩出身の幕末の洋学者、川崎尚之助の功績を著書で紹介した歴史研究家、あさくらゆうさん(43)=東京都荒川区=に、市役所で感謝状を贈った。あさくらさんは「尚之助の研究を通じて但馬人の誠実さが分かった」と話した。  尚之助は、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本八重の最初の夫。  あさくらさんは「川崎尚之助と八重」の著者。約1年かけて尚之助の消息を調査した。戊辰戦争で会津藩が敗れた後も藩士と行動をともにし、飢えに苦しむ仲間のために米の調達に奔走したことなどを明らかにした。  「尚之助は戊辰戦争で逃げ出した」という説に対し、あさくらさんの調査が尚之助の名誉を回復した。  あさくらさんと市役所を訪れた出石の川崎家子孫、川崎修さん(63)=東京都国立市=は「尚之助の功績を発掘してくれて、川崎家の名誉になった。うれしい」と喜んだ。【皆木成実】
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2013年2月18日
山形新聞
八重の初婚相手「川崎尚之助」、相次ぎ書籍化 米沢との関わりなど紹介
 NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の初婚相手・川崎尚之助。謎も多かったその生涯が、新史料の発見で明らかになり書籍化などが相次いでいる。川崎は米沢藩士にとって砲術の師匠で、米沢との関わりや市立米沢図書館の史料の存在も含めて紹介されている。  川崎の生涯を描いているのは、戊辰(ぼしん)戦争後の消息や先祖などに関する新史料を見つけた歴史研究家あさくらゆうさんの著作と、八重の再婚相手・新島襄が創立した同志社大の元職員竹内力雄さん(京都市)の論文。  それによると、川崎は今の兵庫県豊岡市に当たる出石藩出身で、米沢出身・大木忠益の江戸の塾で八重の兄・山本覚馬と知り合い、会津藩蘭(らん)学所の教授となった。戊辰戦争では妻八重と共に鶴ケ城に籠城して戦ったが、敗戦後に離別。八重は京都で、兄の知人の新島襄と再婚した。  戊辰戦争後の川崎の消息は不明で、「会津を捨てて逃げた」とも言われていたが、あさくらさんが札幌市の北海道立文書館で見つけた記録で、藩士として会津藩再興先の斗南藩(青森県)に移住、藩のため米を調達しようとしてトラブルとなり裁判中、責任をかぶったまま東京で死亡した事が分かった。会津のために尽くした末の最期だった。  米沢藩士では、八重が母らと1年間世話になった内藤新一郎、後に海軍文官となった小森沢長政らも川崎の弟子だった。小森沢の実家は内藤家に近く、あさくらさんは「小森沢の実兄の宮島誠一郎(官僚・政治家)が、京都に出向いた際に覚馬に母や妹八重の居場所を教えた可能性は高い」とする。  あさくらさんは1年がかりで川崎の古里豊岡市など全国を回り、米沢図書館では内藤ら米沢藩士が会津での開戦直前、八重の実家に寄宿していた事を示す史料も発見した。川崎の子孫も突き止め、「川崎尚之助と八重―一途に生きた男の生涯」(知道出版、1575円)にまとめた。  竹内さんも、独自の調査とあさくらさんの発見を基にした論文を「会津人群像第22号」(歴史春秋社、1260円)に掲載した。米沢図書館に残る内藤の日記原文も紹介した内容で、小冊子「八重の夫・川崎尚之助の真実」(500円)にもまとめて同志社生協ブック&ショップ=075(251)4427=で販売している。
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2013年2月25日
日本経済新聞夕刊
お登勢の生家示す文書発見 寺田屋おかみ、竜馬ら支援
 坂本竜馬が襲撃された寺田屋事件の舞台として知られる京都・伏見の宿「寺田屋」のおかみで、竜馬ら幕末の志士を支援した「お登勢」の生家を記録した文書が大津市で見つかった。大津市歴史博物館の樋爪修館長は「生家を確定できる意義ある資料だ」としている。  見つかったのは1847年の宗門人別改帳。お登勢は、現在の大津市中央1丁目に当たる丸屋町の宿「升屋」を経営した重助の次女で、当時18歳と記され、4人のきょうだいがいたことも分かった。  発見した東京都の歴史研究家、あさくらゆうさんによると、お登勢は寺田屋に嫁いだ後、主人、伊助を助けて宿を切り盛りしたことが知られているが、生家の位置や家族の状況は詳しく分からなかった。  あさくらさんは重助が大津で訴訟関係者の泊まる「公事宿」を経営していたことから、裁判所の役割を持っていた代官所周辺の宿を調べた結果、丸屋町にたどり着いた。  寺田屋事件は、1866年に竜馬が伏見奉行に襲撃された事件。ほかに薩摩藩士が襲われた62年の事件もある。  竜馬を顕彰する京都龍馬会の赤尾博章理事長は「すごい資料が出てきた。京都・伏見と連携した町おこしにつながるのでは」と話している。
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2012年12月29日
福島民友
壬生浪士組の配置図発見 御所で功績、後の新選組に
 壬生浪士組としての功績が認められ、新選組を名乗ることを許されるきっかけとなった「8月18日の政変」の京都御所での配置図が会津若松市の会津図書館で見つかった。新選組は2013年で結成から150年となる。発見した歴史研究家のあさくらゆうさんによると、配置図は会津藩士とみられる人物が、京都での会津藩の動静などについてまとめた「文久元治亥子太平録」の中に挟まれていた。  A3サイズを一回り大きくした程度で、天皇の住居とされる「桐菊」の南門と近くの「御花畑」という場所の間に「壬生浪士」と書かれている。会津藩の本隊や鉄砲隊といった記載もある。 太平録には、南門に配置された浪士全員が白い鉢巻きを付け、あさぎ色に白い山型の模様の羽織を着ていたと書かれており、だんだら模様を示す図も付記されている。個人から図書館に寄贈されたといい、あさくらさんが詳細な内容の研究を進めている。  浪士組は1863年3月、京都守護職預かりとして、後に新選組局長となる近藤勇らが結成。同年にあった8月18日の政変では、薩摩藩、会津藩とともに御所を警護した功績が認められ、新選組として京都市中警護の任務を命じられた。  あさくらさんは「浪士組の警護の様子は文献で分かっていたが、配置図や羽織の模様を図で表したのは珍しい」と話している。
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2012年9月28日
日本経済新聞夕刊
会津開戦時の様子伝える手記 駐在の米沢藩士ら
 戊辰戦争の一戦、会津戦争の始まりの様子を伝える文書を、奥羽越列藩同盟を組み、会津藩とともに新政府軍と戦った米沢藩の藩主の子孫がまとめていたことが28日分かった。会津藩に駐在した米沢藩士らの手記や証言を基にしたもので、藩士は来年のNHK大河ドラマのヒロイン、新島八重(旧姓山本)の実家に寄宿していた。  文書は戊辰戦争後、米沢藩主だった上杉家が編さんした「米沢戊辰実記 会津部」で、山形県米沢市の市立米沢図書館に所蔵されていた。  実記によると、会津藩の砲術師範を務めていた八重の父、山本権八の家に米沢藩士の内藤新一郎と蔵田熊之助が寄宿。内藤は、八重の最初の夫で藩校教授だった川崎尚之助の弟子となった。  実記では1868年8月の鶴ケ城(現福島県会津若松市)での戦いの前日、猪苗代城(現猪苗代町)の兵士らが猪苗代城に自ら火を放ち、敗走したとされ「会津藩士が『敵が攻めてきた。鐘が鳴ったら(鶴ケ)城に入れ』と言い回っている」などと、新政府軍が迫っている様子を記している。  戦い当日の早朝、内藤らは会津の戦況を伝えるため、山本家で急いで朝食を済ませ、米沢に出発した。この時の城下の様子を「辺り一面が黒煙に包まれ、銃丸が雨のように飛び交っている」と表現している。  米沢図書館や文書を発見した歴史研究家、あさくらゆうさんによると、米沢藩からの駐在は当時、数人おり、援軍を出すための情報収集などをしていたという。八重の実家は焼失し、八重と母親らは70年ごろの約1年間、米沢の内藤家に身を寄せた。  あさくらさんは「内藤は川崎に恩を感じ、八重らを米沢に招いたのだろう」と指摘している。  ▼会津戦争 1868年8月下旬から9月下旬、会津藩に加え、米沢藩などの奥羽越列藩同盟軍が新政府軍を相手に福島県内を中心に戦った。会津藩は鶴ケ城に約1カ月籠城して抗戦したが、降伏した。集団自決した白虎隊の悲劇でも知られる。〔共同〕
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2012年5月23日
神戸新聞夕刊
2013年大河の新島八重 最初の夫は出石藩出身
 福島県を舞台とした2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」。その主人公新島八重の最初の夫、川崎尚之助に注目が集まっている。但馬の出石藩出身で、八重の兄山本覚馬らが見いだし、会津藩で教べんをとっていたとされるが、詳しいことは分かっていなかった。大河ドラマ放映決定を機に、その生涯が少しずつ明らかになってきた。(長嶺麻子)  八重は同志社大学(京都市)の創立者新島襄の妻。会津藩の砲術師範の子として生まれた。1868(明治元)年の戊辰戦争の最中、藩士らと共に若松城に籠城し、新政府軍と戦った勇敢な女性としても知られる。尚之助は短いながらも、八重と激動の時代を共に生きた。  1922(大正11)年発行の会津会会報(会津藩に関する記録)によると、尚之助は出石藩の医師の子との記述が残る。一方、江戸末期に記された出石藩士らの名簿「御侍帳」に川崎という姓が1人いるものの、尚之助につながる記述がないことから出石藩との関連は分かっていなかった。  2人は1865(慶応元)年頃に結婚したが、会津での籠城戦の際に尚之助が行方不明になり、後に離婚した。八重が襄と結婚する75(明治8)年、39歳の尚之助は東京で病死。会津藩士か定かでなかったことから、これまで「籠城戦のさなかに逃亡した」と不名誉な評価もあった。  「八重の桜」の放映決定を受け、尚之助に関心を持った歴史研究家あさくらゆうさん(43)=東京都=はその足跡をたどった。そして昨年12月、敗れた会津藩士らが移った斗南藩(現在の青森県)に関する公文書を、北海道立文書館(札幌市)で見つけた。そこには尚之助が会津藩士として仲間と行動を共にし、食糧難に窮する藩のため奔走した様子が書かれていた。  出石藩のあった豊岡市でさらに調査すると、願成寺(同市出石町東條)にあった明治中期に記された墓石台帳に、尚之助と同じ没年月日の戒名があった。出石藩士だった川崎家の墓であり、戸籍をたどってもほかに該当者がいないことなどから、あさくらさんは「郷里を離れて死んだ尚之助を弔ったとみて、ほぼ間違いないだろう」とする。  大河ドラマでは、八重は綾瀬はるかさんが演じ、尚之助役は一部報道で長谷川博己さんに決まったとされる。NHK広報部は「八重と尚之助の結婚もしっかりと描く。6月には正式に配役を発表できる」としている。 
2011年12月30日
日本経済新聞朝刊
13年大河ドラマのヒロイン新島八重の前夫「飢餓傍観できぬ」 札幌で公文書見つかる
 2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の前夫、川崎尚之助について書かれた公文書など40点が、札幌市の北海道立文書館で見つかった。晩年の姿や、藩の人たちの飢えをしのぐために奔走した様子などが読み解ける。 川崎尚之助の名前(中央部)が記された公文書=北海道立文書館提供  見つかった司法省の往復書簡や開拓使の公文録などによると、会津藩士だった川崎は1870年10月、現在の青森県東部にあった斗南藩に移住したが米の取引を巡って訴えられ、75年3月、訴訟継続中に慢性肺炎となり東京の病院で死亡した。  斗南藩は米の収穫量が少なく、寒さと飢えから生活は困窮。公文書には川崎が「飢餓を傍観して黙ってはいられなかった」と米の調達に立ち上がった様子も記されている。  仲間と外国米と収穫予定の大豆とを交換する契約にこぎ着けるが、蔵から米を持ち出す手形の扱いなどを巡って外国人商人らと訴訟沙汰に。  仲間に逃げられた川崎は「藩は無関係」と責任を一身に背負った。東京で裁判をすることになり、72年8月から東京の身元引受人の元に身を寄せた。立ち退きに遭ったり、引受人が3度も交代したりと不遇も続いた。  文書を発見した歴史研究家あさくらゆうさんは「犠牲心に富んだ人間性がうかがえる。藩のことだけを考えた決断だったのだろう」と分析する。  ただ、八重とのなれ初めや結婚した時期、離別の理由などを書いた文書は見つからなかった。八重は同志社大(京都市)の創設者、新島襄と76年に再婚。川崎は会津藩士だった68年、戊辰戦争の鶴ケ城籠城戦で八重らとともに戦ったが落城。その後の足取りについては不明な点が多かった。
2011年2月5日
東京新聞朝刊
さな元夫が移転事業関与 横浜最後の遊郭成立示す資料発見
 千葉さなの元夫で、元鳥取藩士の山口菊次郎が、横浜最後の遊郭として栄えた「真金町・永楽町遊郭」の成立過程に深く関与していたことを示す資料が見つかった。発見した歴史研究家あさくらゆう氏は「実業家としての菊次郎の功績と実像が確認できたことに加え、明治前期の横浜の風俗史の内幕を知る上でも貴重」としている。(吉原康和)  資料は、高島町などにあった遊郭が真金町と永楽町に移転する際、発起人と地権者の代理人、遊郭の事業主らが取り交わした約定証書などで、「池田家文庫」(岡山大学附属図書館蔵)と呼ばれる旧岡山藩主池田家の資料の中に収められていた。  資料によると、高島町にあった遊郭の移転事業は一八七九(明治十二)年ごろから本格化する。移転先の土地は、元岡山藩主で第十五国立銀行頭取の池田章政名義で取得後、同銀行手代だった長瀬鉄蔵らに名義変更されるが、菊次郎は計画当初から長瀬の代理人として登場。菊次郎の自宅のあった駿河町(現在の中区弥生町)に移転事務所を構え、高島町などの遊郭の事業主らの移転の周旋などに当たった。  また、菊次郎は長瀬から依頼を受けて移転地をめぐる土地のトラブル処理にも登場する。長瀬は後に遊郭の移転に貢献があったとして神奈川県から表彰されるが、資料によると、現地には一度も顔をみせなかった。このため、移転事業の実質的な現地責任者が菊次郎だった可能性が高いとみられる。  実家が真金町で置き屋「富士楼」を経営していた落語家の桂歌丸さんは「うちの店にも売れっ子の女性が二人いて、おかげさまで家を三度も建て直しできたほど、繁盛していた時期もありました。空襲などで地元に残っている資料も少なく、移転当時の資料が出てきたことはすごいと思う。落語のマクラとしても使えるし、噺家としてもいい参考本になるでしょう」と話している。
2010年8月23日
東京新聞朝刊
千葉さな署名直筆か 都公文書館で発見「坂本竜馬の婚約者」力強い筆跡
 坂本竜馬の婚約者とされる千葉さな(1838〜96年)の署名がある直筆とみられる  文書が22日までに、東京都公文書館から見つかった。専門家は、文書の性格などから  「本人の筆によるものだろう。初めての発見だ」としている。  文書は1887(明治20)年の南足立郡役所(今の東京都足立区役所に相当)建設に  際し、住居の立ち退きを求められたさなが、建物などの移転料を求め当時の東京府知事に  出した「御受届」。  足立区立郷土博物館の学芸員多田文夫さんは、照らし合わせるさなの文書はないものの、  〈1〉当時、役所に提出する文書は自署が原則〈2〉武家出身で読み書きができ、代書を  依頼した可能性は低い―として「状況から考えると本人の署名と考えられる。初めての  発見で、今後の研究を進める大きな一歩になる」と話している。  さなは「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟定吉の娘で、当時は千住(足立区)で、  きゅう治院を営んでいたとされる。  発見した歴史研究家あさくらゆうさんによると、御受届は「千住1丁目1番地 建物22坪うち  2階造4坪 庭植木とも この移転料1坪につき金6円59銭」などと書かれ、これらを  条件に立ち退きを受けるという内容。明治20年1月20日付で、「千葉さな(奈)」と  署名され、「佐奈」と読める印も押されていた。  女性の筆としては力強く勢いもあり、勝ち気だったとされるさなの性格もうかがえる。  あさくらさんは「さなの住所や、どんな家に住んでいたかが分かる文書だ」と指摘。  庭木の移転料まで請求しているのは同時期のほかの御受届にはなく「幕末を生き抜いた  女性の強さを感じさせる」と話している。  文書の写真は同区千住河原町29の5、矢立茶屋小資料室で展示されている。
2010年8月16日
茨城新聞
お梅の顕彰碑建立へ 新撰組・芹沢鴨の隣で供養 行方有志「愛する2人一緒に」
 新選組の初代筆頭局長を務めた芹沢鴨と愛を誓い合い、芹沢と一緒に暗殺された「お梅」の顕彰碑が来月、芹沢家の菩提寺である行方市芹沢の法眼寺に建立される。歴史家の研究により「お梅」が埋葬されたとも考えられる墓が京都市内に確認されたことをきっかけに、地元有志が「鴨の故郷で2人を一緒に」と計画した。  「お梅顕彰碑」は同寺の「芹沢鴨・平間重助顕彰碑」の隣に建てられ、「なめがた新選組まつり」最終日の9月19日に除幕される。  これまでの通説や小説では、お梅は着物商の菱屋太兵衛の妾で、未払いの代金集金で芹沢の元を訪れ、深い関係になったとされている。新選組に出入りして顔を知られていたため、近藤一派が芹沢を暗殺した際、一緒に殺害された。  芹沢など幕末の人物研究に力を注ぐ歴史研究家あさくらゆうさん(41)は、これまで全く所在不明だったお梅の墓について調査し、京都市歴史資料館に存在する「山名町文書」などから、菱屋太兵衛一族の菩提寺が長圓寺(同市上京区)であることを確認。同寺には過去帖に載せない遺骨などを埋葬する「総墓」があり、お梅も埋葬されている可能性が高いとした。  また、あさくらさんはお梅について、▽当時独身で正妻のない菱屋太兵衛に妾がいるのはおかしい▽当時記された風聞書に妾として扱われていない−ことなどから、妾ではなく菱屋縁故の者である可能性が高いことも指摘している。  「お梅」顕彰碑建立事業発起人代表で「新選組茨城玉造隊」隊長の野原小右二さんあ、「あさくらさんのおかげで、『お梅』さんのことが、かなり分かってきた。芹沢鴨の隣にいれば供養になるのではないか」と話す。  9月初旬には発起人関係者が京都へ赴き、長圓寺の総墓の周辺の土を採取、「お梅顕彰碑」の下に埋設する。また除幕式当日には、芹沢鴨とお梅の2人に戒名をつけるという。
2010年7月4日
日本経済新聞朝刊
竜馬の婚約者・千葉さな 実は結婚歴あり? 明治の記事に記述
 坂本龍馬の婚約者で生涯独身を貫いたとされる千葉さな(1838〜96年)が、龍馬の死後、元鳥取藩士と結婚していたとする明治時代の新聞記事が、3日までに見つかった。 旧鳥取藩の文書から藩士の実在が確認されるなど、発見した歴史研究家あさくらゆうさんは「記事はかなり正確」としている。 故司馬遼太郎氏のコラムなどから独身説が広く知られているが、記事は通説を覆すことになりそうだ。 さなは「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟定吉の娘。江戸の剣術修行で千葉一門に入門した龍馬は、さなと知り合い婚約したとされている。 記事は明治3年(1871年)に横浜で創刊された毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)が1903年8〜11月に連載した「千葉の名灸(きゅう)」。 さなが晩年、千住(東京都足立区)で営んだきゅう治院の来歴などを描く内容で、さなの親族に取材して書かれた。 10月4〜5日の記事によると、明治6年に横浜に移り住んださなが、定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、龍馬の七回忌も済んだことから受諾した。 しかし家格の低さもあり定吉が反対。「おまえの命はかつて龍馬の霊前にささげようとしたものではなかったのか」などと怒ってさなを切ろうとしたため、近くの商家が仲裁に入り、翌年7月に結婚した。 菊次郎の身持ちの悪さなどから、10年たたず離縁、千住に移り住み亡くなるまで再婚しなかった。 あさくらさんは鳥取藩主の伝記などから菊次郎の名前や当時、横浜在住だったことを割り出し、横浜市史の関連文書から商家の存在を確認。 さなの横浜時代の戸籍などは関東大震災や戦災で焼失している。 さなの関係資料を所蔵する足立区立郷土博物館の学芸員多田文夫さんは「非常に貴重な記事だ。しっかりした取材に基づいて書かれ、登場人物の実在も確認されており、信ぴょう性が高い」と話している。(共同)
2008年11月11日
山陽新聞朝刊
安富才輔 故郷に眠る 足守藩出身 新撰組・土方歳三の側近 出自や墓 明らかに
 幕末・維新史の中で、今も歴史ファンの高い人気を誇る新撰組。その副長土方歳三(1835―69年)の側近で、 戊辰(ぼしん)戦争最後の舞台・五稜郭(ごりょうかく)=北海道函館市=まで行動を共にした人物に、 備中足守藩出身の安富才輔がいる。謎の多い人物の出自と最期が最近、明らかになってきた。 安富才輔(才介、才助とも)は天保10(1839)年の生まれ。元治元(64)年に新撰組に入り、勘定方を務めた。 函館では土方側近として、土方が銃弾に倒れた際も同行。 東京・日野の土方の実家に〈早き瀬に 力足らぬや 下り鮎〉の句を添えて戦死を告げる書簡を送付。 新政府に降伏後の明治3(70)年、東京で暗殺された―。新撰組ファンらに知られる安富像だ。 新撰組でも表舞台に登場せず、出身を熊本藩や鍋島藩とする史料も…。 出自さえはっきりしない安富の謎を「彼がいなければ新撰組は戦うこともできなかった。 縁の下の重要人物なのに」と追うのは、在野の幕末維新史研究家あさくらゆうさん(39)=東京都。 調査は徹底した現地主義。まずは岡山県立記録資料館(岡山市南方)などで足守藩関連の史料を丹念に調査。 今年春までに、足守藩でやはり勘定方を務めた正之進(1852年没)を父に持つこと、 さらに暗殺はされず「新政府の命で足守へ護送された」ことを突き止めた。足守では謹慎状態のまま4年後、 明治6(73)年に没したことも分かった。 調査を裏付ける墓探しも着手。地元の協力もあって今年7月、田上寺(岡山市足守)の墓地の一隅で、 覆いかぶさった竹やぶを払いながら「安富才助夫婦之墓」を確認した。 あさくらさんは11月16日、日野市の講演会で研究成果を発表する。
2004年10月13日
日本経済新聞夕刊
近藤勇「介錯役」から敬意 手厚く法要 詳細に記す手紙 岡田藩士の横倉喜三次 賞金全額充てる
 新選組の近藤勇(1834−68年)が中山道板橋宿(現在の東京都板橋、北両区境)で処刑された際、介錯(かいしゃく)役を務めた岡田藩士の横倉喜三次が、勇のために岡田藩(現在の岐阜県揖斐川町)内で営んだ法要の記録文書が揖斐川町でこのほど見つかった。 喜三次が受け取った介錯の賞金全額をつぎ込み、藩主や自分の菩提(ぼだい)寺から僧侶を呼んだ事実が記されている。藩の武術指南役だった喜三次は勇と同様に剣術の使い手。介錯役の立場を超え、勇に心を寄せていたことを示す貴重な史料といえそうだ。 文書は「大和守(やまとのかみ)法会入用覚帳」と参列者の手紙2通で、歴史研究家あさくらゆうさんが喜三次の子孫宅で発見した。  手紙には「(喜三次が賞金の)金子を下さり、お竹さま(喜三次の妻)が十六日に営まれました」と記述。藩主の菩提寺の松林寺、横倉家の大興寺などの僧侶ら六人が法要を執り行ったことや参列者の名前も書かれ、参列できなかった喜三次に様子を伝えている。  もう一通は「近藤は処刑に処せられたる者であるが、(喜三次の)深い情けで法会をしてもらい、きっと来世は仏果(良い結果)が得られるのではないか」と喜三次の思いをくみ取る内容。  覚帳には法要が「閏四月十六日」(現在の6月7日)に行われたことや、お布施の額などが詳細に記録されていた。  近藤勇は新撰組の局長として京都で活躍したが、1868年4月初めに現在の千葉県流山市で官軍側に捕らえられた。25日に処刑されるまで岡田藩などに預けられ、喜三次とも会っていた。揖斐川町歴史民族資料館の粟野守之館長は「喜三次が勇の法要をした事実はあまり知られておらず、内容を伝える貴重な資料。勇を『大和守』としており、幕臣としての敬意を表しているのではないか。ヒューマニズムが感じられる」と指摘。  あさくらさんは「剣士として同じく武術を極めていた勇と相通じるものがあったのではないか」と話している。(共同)
2004年8月7日
京都新聞朝刊
近藤勇の手紙など160ページ 支援者まとめた資料発見
 新選組の局長近藤勇が、有力支援者だった日野宿(現東京都日野市)の名主佐藤彦五郎(佐藤俊正)へあてた手紙の写しなどをまとめた「佐藤俊正雑記」が、東京都文京区の東京大史料編纂所で見つかった。  発見した歴史研究家あさくらゆうさんによると、雑記は手紙のほか幕府に政策を説いた建白書や、勇らを顕彰する文章など約160ページ。既に内容が知られているものも多いが「佐藤俊正の名前を冠した資料の発見は初めてで、俊正の勇に対する思いが見て取れる」という。  勇は剣術の流派「天然理心流」の4代目で、俊正とは兄弟弟子の間柄。俊正は自宅の敷地に道場を造り、勇が新選組として京都で活躍している間も流派の振興に努めた。(共同)
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