明治5年式戸籍前後
ここでは初めて作られた戸籍の経緯について紹介いたします。
宗門人別帳
 戸籍の元祖と言われているのがこの宗門人別帳です。邪教を取り締まり、かつ年貢の徴収をスムーズに行なうため、各領主がその村々から届けさせたもので、その村の宗派、寺院ごとに家族単位で記されています。  内容は家持、借家の別。場合によっては職業。石高、あるいは水呑の別。名前、印鑑、異動事項があればその内容が記されています。  この人別帳は毎年作られ、人の異動を把握する材料となりました。生年月日は記されず、作成年に何歳と記載される。現在の戸籍と同様な登記事項も存在することから戸籍史の変遷の一材料とも受け取れます。
庚午戸籍
 明治新政府が発足し、一番必要だったのは財源の確保でした。そのため、広く一般より税の確保を容易にすること、人員の把握や邪宗派への転向を防止する等、諸々の事情により戸籍法が施行されることになりました。それを先駆けて各村々で作られたのがこの庚午戸籍といいます。なかには編成が遅れて明治4年に作られたものもあり、これは辛未戸籍といいます。写真では上部に罫線を用いたタイプが使用され、特に基本様式は設けられませんでしたが、大体は上記写真と同様の記載方式でした。順に説明しますと、上部から
○地番、職業、石高、馬等頭数(その人の財力を示す)
○身分事項(この事項が詳細か否かによって、戸主等の相続年月日が明治5年以前編成前相続と書かれたか、江戸期に遡って相続年月日が書かれたかの分かれ目となった)
○編成年当時の年齢、
○身分、氏名が記され、最後に旦那寺が記されました。基本的に現代に残る戸籍の草分け的存在で、基本的に名主、庄屋等、分限者が所有していました。まだ、宗門人別帳を多く継承した形で用いらております。
明治5年式(壬申)戸籍
 明治4年4月4日に太政官布告として公布された戸籍法に基づき、明治5年2月1日施行され、作られた正式な戸籍第1号がこの明治5年式戸籍であり、干支が壬申だったことから通称「壬申戸籍」といわれます。写真では罫線を用いたタイプが使用されていますが、特に基本様式は設けられませんでした。記載を順を追って説明しますと、
○地番から始まりその地所の所有の有無、
○士族平民の別(平民のみの村では平民記載が省略された地域もある。明治19年戸籍で塗抹されず書かれている例があるが、これは原戸籍に平民記載がなかったことによる場合が大きい)
○士族であれば禄高、農工商雑なら職業
○戸主の父(亡の字は基本的に氏名の下に付く)
○戸主名
○続柄の記載の順番は戸主、高祖父、高祖母、曽祖父、曾祖母、祖父、祖母、父、母、妻、妾(明治15年廃止)と続き、最期に附籍者(明治31年廃止)が記載されました。
○明治5年時点において、生年月日は現在のものでなく、上記庚午戸籍に倣い○年時点において○年○月と記された(明治9年より生年月日に改められる)。
○身分事項欄には最初の戸籍という性質上、発生ごとにありとあらゆる個人情報が登載されました。そのなかには身体欠陥や犯罪歴、死亡した場合、病死事故死の別、伝染病だったらその病名。移動事項については士族平民職業が氏名の上に記載されました(なかには族称は一部省略することもあった)。
○ちなみに明治5年以前の移動年月日がある地域とない地域があるが、これは庚午戸籍が作られず、宗門人別が踏襲された地域や、士族では役場に分限帳が存在しなかったため、申告によって作られた場合とが考えられる。
○最後の欄には氏神と旦那寺が記されました(氏神については大都市によっては明治11年以降、把握が難しいため省略される傾向にあった)。
○この戸籍については職業欄、身分欄において、一部、賎民解放令が施行されたにもかかわらず、庚午戸籍に倣い元○○と記載する地域もあり、また職業によって誤解を生じる結果を招く可能性も指摘されたため、昭和43年3月29日民事甲777号通達によって、現在、この戸籍は封印保管され、まったく一般には公開されておりません。ただし、将来において学術を目的として用いられる可能性があるとも考えられることから現在も都道府県各所に眠っております。
*上記2点は当時戸長をしていた旧家が保存していたもので、現在法務局に眠っている正本ではありません。内容は大区小区制が布かれていた明治11年までのものであり、正本が見られない現在となっては貴重な史料であります。当然のことながら、公開にあたり、たとえ生存者が皆無である120年前の史料であっても、最大限の配慮を行った上で加工して公開していることを付記します。:歴史企画研究
 TOPに戻る